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2006年02月27日

西尾文治元三重県議会議長 家族に見守られ永眠 七十三歳の生涯に幕 2

 顧みて西尾文治氏の生涯を振り返る時、勤勉と努力の人であったことが見て取れる。

 昭和七年十一月二十一日、この世に生を受け昭和二十三年三月,阿児町立鵜方中学を卒業と同時に家業である瓦製造販売及び農業に従事、35才で丸文工業㈱、丸文ビル管理㈱、丸文産業㈱の代表取締役に就任、県議に初出馬する昭和五十八年まで商工会関係、観光協会の要職を歴任する足跡には勤勉で誠実な努力家ぶりが伺える。

 新制中学卒業ながら独学で書を学び、短歌を詠まれ、書道には独特の風格さえ漂っていた。西尾文治氏は東南アジアへの親善旅行先で招待で、焼肉を召された時、おかしいと思いながらも招待してくれた人たちへの配慮から吐き出すこともせず飲み込んだ事が、体調を崩す一因だとは自ら知る由もなかった。

 透析を受け、体調の異変を知り、県議を七十才を区切りに引退の腹を固め、平成十四年七月に引退表明した。

 引退に当り、後援会幹部らは、子息への後継要請にも頑なに拒み年明けに後継者として中嶋年規氏を指名して中嶋氏の当選に尽力された。

 西尾氏の生涯を鑑みる時、長所と短所が絡み合う「やさしさ」があった。

 幼児時に最愛の母親に死に別れ、幼くして父をも亡くし、自らの生い立ちの徒手空拳の苦労の中で学んだ他人を思いやる「やさしさ」の深さであった。

 脳科学者で著名な塩田久嗣氏は、人の脳には六種類あり、主体優位型には目立ちがり屋が多く、政治家や起業型に多いとされるが、西尾文治氏は協調優位型の人ではなかろうかと思える。

 魑魅魍魎(ちみもうりょう)の政界において立身出世の野望の刃を研ぎ人を蹴落として生きる世界での「他人への思いやり」は人一倍であった。

 平成七年、北川正泰知事が当選してきた翌年に阿児町神明の賢島へ「カジノ構想」をぶち上げたのもバブルが弾け、伊勢志摩への観光客の落込みから観光客誘致の一環としてモナコ王国がカジノを国営で営み、その利益で国家を賄って、国民は無税に暮らす姿に志摩市の活性化への夢を馳せたのであろうか?

 その後、石原慎太郎東京都知事も東京カジノ構想も日本では法の改正の必要から無理とされ没となったが、昨今、自民党内にもカジノ構想実現に向けて歩み出すなど常に時代を先取りするユニークで夢あるアイデアだと話題を呼んだのも昨日の如く蘇る。

 平成十四年、政界から引退を表明した西尾文治氏であったが、平成十六年、旧志摩郡五町が合併、新市の誕生する志摩市長選への出馬要請に一度は政界から引退を決めた西尾文治氏も要請を受ける形で初代市長選への出馬へと心を動かし、選挙戦へ突入したが「一度、政界を引退したのに」「健康不安説」の中傷誹謗(ひぼう)が流され落選したが、信念に赴いた行動には、悔いは無かろう?

 告別式は二月二十四日、阿児アリーナで営まれ式場には千人近い参列者が訪れ静寂が周りを包む中、ご遺骨入場,献灯の儀、ナレーション,開式,寺院入場・読経,曹洞宗管長大道晃仙代読の弔詞、中川正美元県議会議長、竹内千尋志摩市長らが故人の遺徳を偲ぶ弔辞を読んだ。

 引導・法語、寺院焼香、遺族焼香に次いで遺族、来賓、一般会葬者らが、献花して祭壇中央に飾られた遺影に最後の別れを惜しんでいた。

 出棺の際には、志摩市では珍しい粉雪が舞っていた。

 降る雪や
  昭和ひとけた
 遠くなりにけり

 軍国の戦前、焼け野原の山河に立って飢えと貧の戦中直後から経済高度成長の昭和の後半、平成の大不況と志摩の歩みを身をもって体験した西尾文治氏の逝去の報に世の諸行無常の儚さを垣間見る惜別でもあり、一つの時代の終えんであろうか?西尾文治氏の戒名「政徳院照岳文誠禅居士(せいとくいんしょうがくぶんせいぜんこじ)である。

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