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2006年02月27日

西尾文治元三重県議会議長 家族に見守られ永眠 七十三歳の生涯に幕 1

 西尾文治元三重県議会議長は二月二日、午後一時二十六分、入院先の伊勢市御園の山田赤十字病院で肺がんのため死去された。

 通夜は二月四日、自宅、葬儀は二月二十四日午後一時より、阿児町の阿児アリーナで西尾家、丸文グループの合同蔡で営まれた。

 西尾文治氏は昭和五十八年の統一地方選挙志摩郡選挙区から出馬、初当選した。

 これまでの旧志摩郡選出の県議は旧大王町波切の山本幸一氏,同船越の喜田喜太郎氏が長い間、議席を独占していた。

 喜田喜太郎氏が病死、山本幸一氏の引退を受けての県議選で、志摩町から浜口光也氏、大王町から山本幸一氏の子息の教和氏、阿児町から、田畑楠利氏に西尾文治氏の四人が立候補した。

 激しい選挙戦となったが、西尾文治氏はトップ当選、次いで浜口光也氏が当選、山本教和、田畑楠利氏は落選の憂身を見た。

 昭和六十年九月の阿児町長選へ田畑楠利氏は県議選への出馬を断念、阿児町長選への鞍替えを決断し、三期目を目指した森本隆治町長に挑み、当時の志摩郡の建設業者らで創る「建設同士会」の全面的な支援を受けて森本町長を打倒したことから、昭和六十二年四月の県議選は、西尾文治氏、浜口光也氏、山本教和氏の三氏で二議席を競う少数激戦を演じ山本教和氏は野呂昭彦衆院議員(現知事)の支援を断り、藤波孝生衆院議員の後援会「藤波会」の全面協力態勢で挑み雪辱を果たし、平成三年四月の県議選は無投票当選、平成七年四月の県議選で大口秀和氏が新進党から出馬するも西尾、山本両県議の厚い組織力に阻止された。

 西尾文治氏は田村元衆院議員の後援会幹部だが、初出馬の当時は田村元後援会の「はじめ会」の組織割りは阿児町を除く志摩、大王、浜島、磯部四町の「はじめ会」の殆どは浜口光也氏を支援した選挙戦であり、西尾文治氏は手作りの「文友会」を組織して県議選を戦い昭和五十八年四月の初当選以来、平成十一年四月の県議選まで連続五期二十年間務め、後継者を若き中嶋年規氏に譲り引退を表明した。

 県議二十年間に及ぶ政治活動で、西尾文治氏は色々な要職を歴任するが、思い出深いのは水不足に悩む志摩郡民のために蓮ダム建設の尽力は知る人は少ないが、志摩市民の水不足から解消してくれた功労者で、平成五年には世界祝祭博対策特別委員会委員長として世界博を成功に導く陰の役割も果たし、平成十三年五月の県議会役員選で第94代議長に就任した。

 議長就任当時のエピソードとして今後も語られる一つに平成十三年十一月二十七日~三十日まで天皇・皇后両陛下が地方事情視察に本県を訪れ、当時の北川正泰知事と西尾文治議長は四日間、行幸啓の随従された、ある日の昼食時に西尾文治議長は短歌を美智子皇后に渡され、皇后様から天皇陛下に渡されると読んだ天皇陛下は大変喜ばれたが、付添う宮内庁の人々は困惑したとも言われた。
短歌には一年ほど前に、お生まれになった孫様の愛子さまの誕生を祝し

秋満ちて
  生まれ賜うや
新世紀
 世界が全て
  安らかなるを

直筆の色紙であった。

 翌年の元旦には、西尾夫妻は皇居に招かれる栄に俗した。

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